これまで大企業では、新しい技術について「研究」という形で経験を積み、歴史を重ねてきている企業も多い。化学系・材料系や医療系の研究所は商品直結の研究になるが、物作り企業の研究所では、5年先、10年先、20年先の未来に向けた技術のタネを蒔いて、10あるテーマのうちの1つのテーマが軌道に乗ることに期待するものだった。
昭和から平成にかけての研究所の役割は、基盤事業とは一線を置いた完全未来志向への投資であり、経営陣も自社の研究所と密にかかわってきていれば、新規事業の加速に悩む必要はなく、経営判断の際に必要な過去の経験則や経験値も十分に備えているようにも思われる。
基盤事業によって安定した収益のある企業が未来に向けた研究所を運営してきた背景には、研究テーマに直近の直接的な収益を求めず、研究所を持つことと研究成果を公表し続けることのステータスに加え、内外へ広報することによる企業価値の向上、そして基本特許戦略にあった。
研究に直接的、短期的な利益を求めないため、社会のニーズから技術を生み出すのではなく、技術から社会への提案をする形になるため、自由な発想、奇抜な発想が求められた。その結果、製造現場とは大きく異なり、研究所の就業環境とルールは、広大な面積と寛大で自由な就業環境が特別に用意されていた。
製造ラインでの工数管理のための就業時間感覚や作業タクト、効率的な物の配置や作業導線など、安定した品質のために統制を重んじる製造ラインで働く人にとって、研究所は想像もつかない遠い世界になる。朝のラジオ体操もチャイムも鳴らず、昼休憩なども自己裁量の範疇にあり、服装ですら自由で、社内の不公平感を嫌ってか、研究所は都心から少し離れた郊外に置かれることが多かった。
そんな研究所に勤める研究員にとって、企業の研究所は大学の研究室の延長でしかない。大学の研究室は、学問の追求と知識拡大のほかに、研究成果を論文にまとめることで、社会人としてのやりがいを持つことや達成感を経験してもらい、さらに、大学と先生の成果につながる研究結果を公表して、教育の質と学校の評価に貢献する場である。
年々入れ替わる学生は、自分の実験室に愛着が出る頃に卒業となるため、物の管理や整理整頓にルーズになる。私自身も技術者だった頃は汚い実験室にこもって仕事をしていたが、総務になってからは5S(整理・整頓・清掃…)を推進する立場になり、学生感覚の抜けきらない研究員の安全衛生の啓蒙は難しいと感じながら進めていた。
少し話が逸れたが、大学の研究室も、メーカー企業の研究所も、研究成果が社会への応用と学問の発展、そしてやりがいを求めながらも、直接的な利益貢献には繋がらない理解で成立していた。企業の研究所は、研究論文の公表と技術の基本特許取得、定期的な宣伝効果による企業価値向上に貢献したことを評価し、それ以上のことは求めていなかった。
しかし、内容が同じでも「研究」から「新規事業」に言葉が変わると、途端に早期事業化と計画的な採算見通しまで求められてしまう。自由な発想、奇抜な発想で新しい成果をもとめるのは同じだが、長年研究畑にいた研究員や管理職に対して、突然、事業化と採算見通しを求めても、答えは出てこない。
市場のニーズ、生産体制、原価計算、販売チャネル、品質保証体制、新たな業界での競合との関係を、自らの研究テーマに落とし込める研究員は、まず居ない。マーケットや生産管理、品質保証など余りにも畑違いで、興味もないから仕方がないことだが、オーダーを受けて困り果てた企業の研究所の管理職は部下の研究員にこの指令をおろしてしまう。
自分の研究する内容が、世の中にどのように役立ち、評価されて売れていくのかという部分にまで興味のある研究者であれば、経営層のオーダーにも興味を持って臨めると思うが、研究者と呼ばれる人に総合的な感性を持ち合わせた者は少ない。大抵の場合は大学の研究室の延長であるため、研究テーマの実験とデータ処理、論文のまとめに忙しくしているところに、慣れない経営判断のデーターまで要求されても、簡単に答えは出せず、責任感のあるサラリーマン研究員の多くは鬱になってしまうことになる。
それでも経営層は研究者に語りかける。この会社の将来や新しい事業は、あなた達にかかっている。これまでも自由にやってもらってきたが、これからも自由にやってもらって構わない。しかし、今後は利益につながる成果を求めたい。責任と権限も与えるので、やりがいを持ってしっかりと頑張ってほしい。基盤事業が揺らいできてしまっている状況下では、地方や郊外の研究所を大学の研究室の延長線で構えることができる時代も終わって、再考せざるを得なくなっている。
経営層も研究員も、これまでの研究所運営と経験による蓄積を、すぐさま上手に新規事業には活かせていない。経営者が研究員に新規事業を求めるならば、研究員のこれまでの環境と意識を変えるための助走期間と教育は必要になるかと思われる。
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